時勢

薩摩

この頃の尊皇攘夷の気運の要因の一つとして、薩摩の島津久光が、兵を率いて上洛するということがあったと思います。 萩で龍馬も薩摩の志士に会っています。 この時龍馬は武市の手紙を携えて萩に入っていて、武市の命で萩に入ったのです。 そして約10日滞在…

薩摩

この頃、薩摩では、島津斉彬が藩主になり、公武合体に動いています。 将軍家定の正室として、篤姫を大奥に送ります。 これは、時期将軍を一橋慶喜にするための工作で、西郷隆盛も越前の橋本佐内らと奔走します。 西郷は薩摩の下級武士の組織「誠忠組」のリダ…

東南アジアの植民地化

19世紀になると、東南アジアは、次々とヨーロッパの植民地に組み込まれていきました。 そして、その波は日本にも押し寄せてきていました。 龍馬の初めての江戸行きの頃、ペリーは日本へ向けて航海していたと思われます。 最終的には慶喜はフランス公使・ロッ…

長州藩

昨日は、大名について書きましたが、この時期藩として最も血気盛んであったのが 吉田松陰率いる長州藩でしょう。松下村塾!門下生として、久坂玄瑞、高杉晋作、吉田稔麿、入江九一、伊藤博文、山縣有朋、前原一誠、品川弥二郎など錚々たる人物です。 桂小五…

第二話「大器晩成」1

録画に失敗してしまいました(T_T)一応、ON TIMEでは見ましたが、雑用しながらでしたので、しっかり見てません。 残念っ! いきなり、乙女と龍馬が父八平に江戸留学を願い出てましたね。 龍馬、若干19歳の時です。 幕府のあわてふためいた様子が描かれてい…

慶応3年後半

7月01日 中岡慎太郎と共に十津川屋敷へ向かったのち、松本楼に後藤象二郎をたずねる 7月02日 西郷吉之助より後藤象二郎にあて、柏亭にて有志らと集会を開きたい旨を伝えられる 07月04日 長岡謙吉と共に京都から大坂へ下る 07月05日 大坂にいた…

慶応3年前半

01月03日 久保松太郎にあて宿舎手配の礼状を記す 01月03日 桂小五郎に年始の挨拶と伊藤九三方に宿泊している旨を伝えた手紙を書く 01月05日 夜分に中岡慎太郎のたずね、翌朝まで快談 01月09日 下関から長崎へむかう 01月11日 長崎にいた…

慶応2年後半

06月01日 楢崎龍と共にユニオン号へ乗り込む 06月04日 ユニオン号、鹿児島を出港し長崎で楢崎龍を小曽根英四郎方に託す 厳密には、小曽根英四郎 は海援隊士ではないみたいですが小曽根家は貿易で豪商となり、海援隊の本部も小曽根邸 であったようで…

ワイルウェフ号遭難

慶応2年3月に海援隊(亀山社中)は、薩摩名義の木造の小型帆船を入手しています。 ワイルウェフ号です。 このワイルウェフ号とユニオン号が先に桂と約束した米を鹿児島にはこぶため同年4月末に長崎を出航。 5月2日に暴風雨のため、座礁沈没してしまいま…

寺田屋事件

この寺田屋事件は文久2年の薩摩藩士の同士討ちの悲劇ではなく。 慶応3年1月23日に坂本龍馬を伏見奉行配下の捕り方が捕縛ないし暗殺しようとした事件です。 場所は同じ京都伏見の船宿、寺田屋です。 尊皇攘夷派が集まった宿としても有名です。女将お登勢…

土佐勤皇党の結末

亀山社中結成とちょうど同じ頃、龍馬の故郷では、龍馬も当初所属していた土佐勤皇党が消滅しております。 吉田東洋暗殺後は、武市は上士を取り込み土佐藩の実権をにぎります。 同年、薩摩上洛に少し遅れて土佐藩も藩主・山内豊範とともに入京。 この頃、土佐…

慶応元年・亀山社中

慶応元年、再び浪人となった龍馬は、主に京都、薩摩藩邸に身を寄せることとなる。 文久3年の生麦事件の報復として起きた薩英戦争で薩摩の海軍は疲弊していた。 そこで、龍馬たちの航海技術を必要としたのです。ギブ&テイクですね。 一方長州も禁門の変、外…

長崎、熊本、島原、神戸海軍操練所

元治元年は春まで、龍馬は勝海舟と行動を共にします。 長崎は鎖国にあっても管理貿易下にあったので、龍馬の目には新鮮に映ったでしょう。 この時の龍馬の感想などを調べようとしましたが、長崎は「龍馬伝」便乗商売ばかりでした。 後に「海援隊」で深く長崎…

文久2年

この文久2年頃は、薩摩・久光の上洛に合わせて、続々と志士、脱藩浪人が京都に集まってきています。龍馬もこれに呼応するつもりで脱藩したのでしょうか? しかし実際には、京都には一時寄っただけで、江戸に行ってますね。薩摩・久光も幕政を正すという名目…