土佐勤皇党の結末


亀山社中結成とちょうど同じ頃、龍馬の故郷では、龍馬も当初所属していた土佐勤皇党が消滅しております。
吉田東洋暗殺後は、武市は上士を取り込み土佐藩の実権をにぎります。
同年、薩摩上洛に少し遅れて土佐藩も藩主・山内豊範とともに入京。


この頃、土佐勤皇党は尊皇攘夷派の中心的な存在になっていた。
武市は上士同様の扱いとなり、また、テロリストの親玉でもあった。


しかし不幸なのは、アル中山内容堂安政の大獄から復権し、実質的に土佐の権力を握ったことです。
この酔侯は、公武合体派・佐幕派であったので武市等の勤皇党の存在が疎かった。
そして文久3年中頃から、京であまりにも尊皇攘夷運動やりすぎる土佐勤皇党の弾圧を始めます。


最初の犠牲者は、平井収二郎、弘瀬健太、間崎哲馬の3名、切腹
  



平井収二郎役は雨上がりの宮迫、妹平井加尾役は広末涼子
平井加尾は龍馬の初恋の人と言われています。
平井収二郎切腹を知った時に加尾のことを思い哀れんだ手紙も現存するみたいです。


そして決定的に土佐勤皇党を追い詰めたのが、8月18日の政変です。
禁裏守護が長州から、会津・薩摩に変わった。


文久3年9月武市も逮捕、投獄。
約1年半の牢獄生活の後、切腹を申し渡されその生を終えた。
岡田以蔵も斬首されております。




半平太が、獄中から姉と妻に当てた手紙


雛菊「月様、雨が…」
月形「春雨じゃ、濡れていこう」
で有名な月形半平太のモデルは、この武市半平太です。
享年36。


「ふたゝひと 返らぬ歳を はかなくも 今は惜しまぬ 身となりにけり」武市の辞世の句。