長崎、熊本、島原、神戸海軍操練所


元治元年は春まで、龍馬は勝海舟と行動を共にします。
長崎は鎖国にあっても管理貿易下にあったので、龍馬の目には新鮮に映ったでしょう。


この時の龍馬の感想などを調べようとしましたが、長崎は「龍馬伝」便乗商売ばかりでした。
後に「海援隊」で深く長崎とかかわっていきます。

長崎焼酎:龍馬伝


そして、神戸に戻り、軍艦奉行勝海舟念願の神戸海軍操練所が設立されます。
龍馬は塾頭に任ぜられ、龍馬の元に土佐の脱藩浪士や
8月18日の政変で京がら追いやられた長州の攘夷派の浪士が集まってきました。
この頃の龍馬は生き生きとしてたでしょう。
海と船の魅力に取り付かれたガキのように。

神戸海軍操練所跡


しかし喜びも束の間。直後に池田屋事件勃発。
この神戸海軍操練所の勝塾の塾生であり、龍馬の同郷の望月亀弥太も加わっており長州藩邸門前で自刃。

池田屋の見取り図


追い討ちをかけるように、禁門の変が勃発、不貞の浪士が集まる勝塾。勝は軍艦奉行を罷免されてしまいます。
そして翌年とうとう神戸海軍操練所は閉鎖されてしまいます。
親交の深かった長州の頭脳、久坂玄瑞も敗走し自刃してます。龍馬の落胆は大きかったでしょう。

京都御所:禁門(蛤御門)鉄砲の痕残ってます。20年位前に見てきました。

「時鳥 血爾奈く声盤有明能 月与り他爾知る人ぞ那起」久坂玄瑞

(ほととぎす ちになくこえは ありあけの つきよりほかに しるひとぞなき)