慶応2年後半


06月01日 楢崎龍と共にユニオン号へ乗り込む
06月04日 ユニオン号、鹿児島を出港し長崎で楢崎龍を小曽根英四郎方に託す


厳密には、小曽根英四郎 は海援隊士ではないみたいですが小曽根家は貿易で豪商となり、海援隊の本部も小曽根邸
であったようです。



06月04日 下関へ向けて長崎を出港
06月14日 下関へいたる
06月14日 高杉晋作と面談、ユニオン号での小倉幕府軍攻撃を承諾
06月15日 頃 桂小五郎と面談、搬送して来た兵糧を貰いうける
06月16日 品川省吾と面談し高杉晋作とも面談
06月17日 ユニオン号、幕府軍との海戦に参加
06月20日 白石正一郎方をたずね高杉晋作と面談
06月20日 高杉晋作と船へ乗り込み下関へむかう
06月20日 高杉晋作白石正一郎方へ帰省する
06月25日 山口で藩主毛利敬親に拝謁、羅紗生地などを拝領し、七月三日まで滞在
07月03日 小郡より下関へむかう
07月04日 下関へ到着した旨を桂小五郎に伝えた手紙を書く
07月27日 桂小五郎に長崎での幕府軍の情報を伝えた手紙を書く
07月28日 三吉慎蔵へ社中の窮乏を伝える。
07月28日 大洲藩が五代才助に依頼し、水夫と機関士の借用を社中へ申し入れて来た旨を伝える手紙を書く
07月28日 森玄道・伊藤九三らに小曽根英四郎の身柄保全を依頼した手紙を書く
08月15日 長崎へいたる
08月16日 小曽根英四郎の身柄保全のため入江屋重平の番頭・与平を下関へ派遣する
08月16日 三吉慎蔵にあて幕府が海峡封鎖を解いた旨を伝えた手紙を書く
08月25日 頃 越前藩士下山尚をたずね面談
08月末頃日 下山尚の訪問をうけ面談


この後に幕府軍が撤退しました。
そして、一橋慶喜は将軍になっています。
徳川幕府15代将軍、最後の将軍、徳川慶喜です。
奇しくも、薩摩はこの慶喜を将軍にするために、斉彬が篤姫を徳川に送り込んでいます。
結局、紀州派(主に井伊直弼)に押し切られ、慶喜は将軍になれなかったのです。


10月03日 龍馬ら社中の七人、薩摩藩から給金(三両二分)を受け取る
10月22日 帆船購入のためプロシアの商人チョルチーと面談
10月23日 船の検分を行う
10月24日 薩摩藩留守居役汾陽五郎右衛門をたずねる
10月28日 のちに「太極丸」と名付けられる船をチョルチーより受け取る
11月??日 五代才助・広沢兵助らと会見し「商社示談箇条書」を作成
11月??日 溝淵広之丞と対面
11月15日 小銃の購入について溝淵広之丞と面談
11月16日 小銃購入の依頼状を溝淵広之丞へ書き、変名「才谷梅太郎」を使用する
11月20日 「取巻抜六」と自称し、寺田屋登勢にあて手紙を書く
12月04日 小曽根英四郎宅で家伝類の贈与を希望した手紙を権平にあて書く
12月04日 乙女にあて、楢崎龍の事や霧島山の事などを伝えた手紙を書く
12月??日 家族にあて、この一年を振り返った手紙を書く
12月??日 桂小五郎に溝淵広之丞を紹介し長州と土佐の復交をはかる
12月15日 伊藤九三方より桂小五郎に面会を求める
12月20日 伊藤九三へ溝淵広之丞の長崎行にさいし、船便の用意を依頼した手紙を書く
12月25日 国島六左衛門が「いろは丸」購入の責任をとって自刃し、その遺体と対面


国島六左衛門は大洲藩愛媛県郡中奉行であったのですが、龍馬、五代友厚の仲介で、
オランダ商人ボードウィンから42,500両で購入、いろは丸と改名しています。
しかし、独断で購入したため藩から切腹を命ぜられます。

いろは丸想像画