第二次長州征討


慶応2年6月第二次長州征討(四境戦争)始まりました。
7日に幕府艦隊の周防大島への砲撃が始まり、開戦の火蓋が切って落とされました。


龍馬は6月1日にユニオン号で鹿児島を出航、長崎でお龍を預け、下関へ向かいます。
この時おそらく海援隊士もユニオン号に乗り込んでいると思います。


戦力の差では幕府軍が圧倒していました。
周防大島口、芸州口、石州口、小倉口から幕府軍が攻め込んだので四境戦争ともよばれています。

周防大島口 ②芸州口 ③石州口 ④小倉口


周防大島口では6月12日、高杉の奇襲により勝利、幕府軍撤退。
②芸州口では6月13日に幕府軍の主力が進攻してきたが、洋式新銃で近代武装した長州軍が善戦し、激戦。
③石州口では大村益次郎の巧みな近代戦術で幕府軍を打ち破り快進撃を続けた。
④小倉口では、大島から戻ってきた高杉の指揮により、6月17日に長州藩海上から門司を攻撃したことから戦いが始まった。


大村は快進撃を続け、7月18日には現島根県の浜田城を陥落させるまでにいたりました。
龍馬は高杉指揮の下、6月17日に長州藩海上から門司を攻撃する緒戦にユニオン号で参戦してます。
小倉口も奇兵隊などの活躍で快進撃を続け、8月1日には小倉城が陥落しています。


ほとんど、軍配は上がっていたと思うのですが、追い討ちをかけるように将軍家茂が7月20日に死去しています。
正室公武合体策で、江戸に降った和宮孝明天皇実妹です。
第14代将軍、家茂享年21、若すぎる死でした。

第14代将軍、家茂


8月20日家茂の喪が発せられ、一橋慶喜が徳川宗家を相続することが発表され、朝廷から征長休戦の勅書が発せられました。
慶喜は、フランス式歩兵部隊を自ら率いて「大討込」を行うと息巻いていたが結局中止となり、勝海舟をして休戦交渉に当らせました。
しかし、勝の交渉は慶喜の態度豹変により失敗に終わり、失脚してしまい9月19日幕府軍は全戦線に撤兵命令を出しました。
ここに、第二次長州征討は事実上、長州軍の勝利に終わりました。


薩長同盟、龍馬の海援隊亀山社中)が持ち込んだ洋式新銃、あと長州軍の戦略がなければ勝利はなかったでしょう。
その長州の戦略を立てた中心人物は、長州藩参謀の大村益次郎でしょう。
もともとは医師で西洋学者、その後兵法も学び長州の参謀となり、明治政府では兵部省の次官になってます。

大村益次郎

「その才知、鬼の如し」長州藩の大村の旧知で蘭学者の青木周弼が大村益次郎を評して。


[rakuten:book:11805167:detail]