薩摩


この頃の尊皇攘夷の気運の要因の一つとして、薩摩の島津久光が、兵を率いて上洛するということがあったと思います。
萩で龍馬も薩摩の志士に会っています。


この時龍馬は武市の手紙を携えて萩に入っていて、武市の命で萩に入ったのです。
そして約10日滞在し、薩摩藩士も交え議論を交わしてます。
そして、久坂からの返信を携えて土佐へ帰ります。


「竟(つい)に諸侯(諸大名)恃(たの)むに足らず。
公卿恃むに足らず。在野の草莽糾合、義挙の外には迚(とて)も策これ無き事と、私共同志中申し含みおり候事にござ候」
これが、久坂の手紙の内容です。草莽堀起論です。


この時、龍馬は日本国の草莽になろう!と思ったんだと思います。
しかし、武市は、何度でも言いますが、一藩勤皇にこだわりました。
この手紙を持ち帰り、間もなく龍馬は脱藩します。


薩摩藩は動きはしましたが、所詮久光は井の中の蛙でした。
倒幕の意思など全くなく、朝廷の言うがまま、京都の治安を託され、寺田屋事件の同士討ちの惨劇が起きてしまいます。
有馬新七
柴山愛次郎
橋口壮介
西田直五郎
弟子丸龍助
橋口伝蔵
以上6名の突出組みが久光の君命に背き絶命。

京都、伏見の船宿寺田屋


「橋口!おいごと刺せ!」有馬新七が討手の道島五郎兵衛とともに絶命(翔ぶが如くより)

画像右上: