第二十一話「故郷の友よ」6

mah-kun2010-05-28


孝明天皇松平容保を非情に頼りにしていた。
異人は嫌いではあるが、このような京の情勢は決して望んではいなかった。


またもう一人頼りにしていたのが、薩摩の島津久光です。
春に上洛した時には自藩の浪士を鎮撫し、京の治安を守った。


姉小路公知が薩摩の田中新兵衛に殺害されたと嫌疑がかかり一時、御所の乾御門の警備を外さることもあった。
しかし、これは薩摩藩の介入を嫌がる尊王攘夷派による仕業という説もあります。


そんなこんなでも、久光に頼むしかなかった。
そこで、中川宮はじめ、公武合体派の公家の工作により、薩摩に勅書が下ります。


「攘夷の意向については、いささかも相立たず、最近天下は治乱の境目に移っており、朕は日夜苦心する日々を過ごしている。今度、大樹公(将軍)が江戸に帰府するということについても、何度も許可しないと申し渡したのであるが、朕のその考えは少しも受け入れられることもなく、既に将軍は江戸に帰府することが決まっているようである。実にもって、朝廷においても、朕の考えは更に貫徹せず、総じて下の勢いばかりが盛んになって、中途半端な取り計らいのみで、偽勅が出されるなど、朕も有名無実の在位であり、朝廷の威光が立たないこの形勢について、朕は至極悲嘆に暮れているのである。何分にも現在の朝廷は、表には忠誠を唱えながら、内心は姦計を計って、天下の乱を好む輩ばかりである。そのため、昨年朝廷の基本を開いてくれたそち(久光)を深く頼みにし、ただ、その上京を待ちわびている。三郎(久光)が急ぎ上京して、尾張前大納言(徳川慶勝)と申し合わせ、一奮発して、朝議が中途で妨害されることの無いように厚く周旋し、皇国のために尽力し、先ず朝廷内部を相整えるように依頼したいと浅からず考えている。昨年そちが上京した際に言上したことについて、まったく実現出来ていないのは、全て姦人の策であるので、何分ことここに至っては姦人を一掃しなければ、とてもこの状態が良くなるとは思われないので、早々に上京して、始終朕と相談して協力し、真実一体となって周旋されたいと考えている。何分このままでは、天下の政を行なうにしても昼夜苦心が絶えないので、その辺りの事情をよく熟考されたいと考えている。このように、上京して朝廷の為に周旋してくれることを依頼したいので、速やかに承知なされ、周旋されるように頼み置く次第である」


この勅書により、長州の下野は決定的になった。


薩摩は薩英戦争で兵力の大半は薩摩でした。
その中で、朝廷工作等、活躍したのが薩摩藩士、高崎正風です。
あまり表には出てきませんが、非常に重要な役割をはたしたと思います。



高崎正風


画像右上:脇知弘:高崎正風役


高崎正風先生伝記 (1959年)

高崎正風先生伝記 (1959年)

古本しかないですが高すぎます。