日曜劇場 JIN -仁- 第4話 薩長同盟

何故、長州と薩摩はそんなに仲が悪くなってしまったんでしょうか?


西郷が島津斉彬に大抜擢され、幕政改革に奔走している頃は長州とそんなに隔たりはなっかったと思う。
斉彬は篤姫を朝廷に送り込みその後、家定の正室にし、一橋慶喜を次期将軍にするという公武合体を図った。
それが、井伊の安政の大獄で状況が一変する。


斉彬が病に倒れ、西郷が失脚してしまう。
その後の薩摩の殿様が良くなかった。
島津久光、兄斉彬の公武合体にこだわり過ぎた。


朝廷の言うことに安直に従い、天誅の嵐の中にあった京から、治安を守るという名目で土佐、長州の急進的過激攘夷論を一掃したのだ。
久光が最初に上洛した頃は、薩摩が完全に主導権を握っていたけど、幕政を正すために江戸に下った後、土佐、長州に京が支配されていたのが
気にいらなかったのでしょう。


会津と組んで、禁裏から土佐、長州を追いやるクーデターを起こしたのだ。
西郷はこの頃2度目の遠島で、沖永良部に流されている。
これが、長州が薩摩に恨みを抱く最初の大事件です。
薩摩では、文久2年に起こした生麦事件の報復としてこの年薩英戦争がおこり、圧倒的な軍事力の差に藩論が攘夷から開国に変わりつつありました。


尊王攘夷」とは徳川幕府の改革のための大義名分であって、実現不可能と多くの志士達は思っていたでしょう。
とりわけ、吉田松陰の弟子である、久坂玄瑞高杉晋作桂小五郎・伊藤俊介・井上聞多などは解りきっていたと思います。


つづく......