船中八策


船中八策については諸説あります。


慶応2年(1867年)6月、坂本はいろは丸沈没事件を解決させたのち、
京都に上洛していた前土佐藩主の山内容堂に対して大政奉還論を進言するため、藩船の夕顔丸で長崎を出航し、
上洛中の洋上で参政の後藤象二郎に対して提示したものを海援隊士の長岡謙吉が書きとめ、
のちに成文化されたもの、とされる。

ただし、原文書も写本も現存せず、詳しい成立過程を証明する史料もないため、
青山忠正や松浦玲などの歴史家は、龍馬が作成に関わっていない可能性があることを指摘している。
また、もともとのオリジナルは上田藩士軍学者の赤松小三郎の構想とも言われている。


以上はウィキペディア原文ママです。


まず、慶応2年と言うのは、間違いで慶応3年です。
はいろは丸沈没事件を解決させたのちも間違いだと思います。まだ解決に至ってません。
あとは正直わかりません。が、龍馬の思いが詰まっていると思います。
したがって僕は前者を信じております。


そして、この船中八策五箇条の御誓文にうけつがれた。
一 広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ
これが、若き日の龍馬、河田小龍に出会って以来、やりたかったことではないでしょうか?
そして、最後の仕上げが、大政奉還

五箇条の御誓文



一、天下の政権を朝廷に奉還せしめ、政令宜しく朝廷より出づべき事。
一、上下議政局を設け、議員を置きて万機を参賛せしめ、万機宜しく公議に決すべき事。
一、有材の公卿・諸侯及(および)天下の人材を顧問に備へ、官爵を賜ひ、宜しく従来有名無実の官を除くべき事。
一、外国の交際広く公議を採り、新(あらた)に至当の規約を立つべき事。
一、古来の律令を折衷し、新に無窮の大典を撰定すべき事。
一、海軍宜しく拡張すべき事。
一、御親兵を置き、帝都を守衛せしむべき事。
一、金銀物貨宜しく外国と平均の法を設くべき事。


以上八策は、方今天下の形勢を察し、之を宇内(うだい)万国に徴するに、之を捨てて他に済時の急務あるべし。
苟(いやしく)も此数策を断行せば、皇運を挽回し、国勢を拡張し、万国と並立するも亦敢て難(かた)しとせず。
伏(ふし)て願(ねがは)くは公明正大の道理に基(もとづ)き、一大英断を以て天下と更始一新せん。

「広く会議を開設し、何においても公の議論によって決めること。」