勝海舟


春嶽の書状を携え、龍馬は勝海舟と出会います。

今や定説となっている、千葉重太郎と、西洋かぶれしている勝を斬りに行って、逆に勝の開国論に感銘を受けて
その場で弟子になったという話ですが「竜馬がゆく」の中でそのように綴っているので、そういうことになって
しまったのでしょう。


海舟の後年の回想「氷川清話」の中で龍馬を
「沈着(おちつ)いて、なんとなく冒(おか)しがたい威権があって、よい男だった」
と記してあります。
開国論を聞き感銘を受けたというのはある程度そう思ってます。
しかし、龍馬のなかにはそのような思想の基礎はあったと思います。
ジョン万次郎、河田小竜、佐久間象山吉田松陰、橋本佐内(とは会ってないかな?)、松平春嶽
松平春嶽は橋本佐内がもし越前にいなかったら、その名はこれほどまで残ってなかったと思います。
そして勝海舟と会って、その思いは決定的になものになったと思います。


千葉重太郎と行ったという話しですが、12月9日の海舟の日記に「有志両三輩来訪。形勢の議論あり」とあり。
とありますので、僕はこちらの方が事実だろうと思っております。
ちなみに三名とは、龍馬、間崎哲馬近藤長次郎(饅頭屋)の三名です。


勝海舟は、この時期には海軍で軍艦奉行に就任しております。
このすぐ後に、勝海舟幕府軍艦「順動丸」で神戸に行ってますので、すぐに弟子入りしたのは間違いないでしょう。


  
右は、1860年サンフランシスコで撮った写真です。

ご覧のとおり二枚目です。超天才だだった思っております。



大河ドラマ龍馬伝」では、武田鉄也が勝海舟役ですが、自分としては残念です。
海援隊という名でデビューしたのも気にいりません。

     

どうみても、イメージと違いすぎる〜(泣) 右は明治時代の勝


勝海舟という名ですが「海舟」は号で、義邦が本名、「安房守」だったことから勝安房(かつあわ)
と幕府内では呼ばれていたようです。明治維新後は勝安芳(かつやすよし)と呼ばれてます。
「海舟」という号は、佐久間象山篆刻(てんこく)「海舟書屋」から採ったものです。
前にも書きましたが、佐久間象山正室勝海舟の妹です。   


「誰を味方にしようなどというから間違うのだ。みんな敵がいい。敵がないと事ができぬ。」