久坂玄瑞


文久2年、龍馬は長州萩で、武市半平太の書簡を持ち久坂玄瑞と会います。
この時、久坂は吉田松陰の「草莽崛起」の考えを強く龍馬に説いたと思います。
松蔭は欧米諸国から、かけ離れて遅れていた日本を憂い過激な尊皇攘夷運動をし安政の大獄で処刑されました。
その遺志を受け継ぎ、最もその情熱にあふれていたのが、この若き天才、久坂玄瑞だと思います。


情熱は間違いなく人から人へと伝導します。
この時、龍馬はしっかりとこの情熱を受け取ったと思います。
とにかく国家の一大事だと。


久坂玄瑞


この時点で、すでに、土佐勤皇党の吉田東洋暗殺の計画はされていたでしょう。
土佐勤皇党は一藩勤皇をかかげ藩として尊皇攘夷の断行を画策してました。
しかし、龍馬はこの計画には賛成ではなかった。
なぜならこの久坂のと会見の後、わずか2ヶ月で脱藩してるからです。
自分も「草莽」になろうと。
草莽とは雑草という意味です。
龍馬は身分制度を、ひどく嫌っていた。
だから、身分に関係なく立ち上がるべきだと。
ただ龍馬の尊王攘夷の思想はどうであったのかはわからない。
このころにはもう龍馬の頭には「攘夷」の文字はなかったかも知れない。


久坂は愚直なまでに松蔭の過激な「尊皇攘夷」貫いた。
そして、長州全体もその方向に動いて行った。


「世に生を得るは、事を成すにあり 。」