安政の大獄


日本プロ野球にうつつをぬかし、名古屋から東京まで行っておりました。
26日まで滞在予定でしたので、皇居の桜田門まで行ってこようと計画していたのですが
あまりにもの「龍」のふがいなさに、気力が失せて帰名しました。


さて、安政の大獄ですが、これは将軍家定が病弱のため子孫が残せなかったことによる将軍継嗣問題に端を発します。
水戸藩徳川斉昭の七男・一橋慶喜を推す一橋派と現将軍に血筋の近い紀州藩徳川慶福を推す保守路線の南紀派とに分裂し激しく対立しました。

大老だった井伊直弼は勅許を得ないまま、アメリカとの通商条約に調印し、次期将軍を家茂を内定してしまった。

安政5年、水戸老公徳川斉昭は、一旦は謹慎していたものの復帰、藩政を指揮して水戸藩徳川慶篤(斉昭の長男)を動かし、尾張藩徳川慶勝福井藩松平慶永らと連合した。彼らは(条約調印は止むを得ないと考えていたが)「無勅許調印は不敬」として、井伊を詰問するために不時登城(定式登城日以外の登城)した。井伊は「『不時登城をして御政道を乱した罪は重い』との台慮(将軍の考え)による」として彼らを隠居謹慎などに処した。これが安政の大獄の始まりである。


尊王攘夷派の志士たちも例外ではなく、つぎつぎと粛清されていきました。
吉田松陰橋本左内などの有能な人材が死刑になり、井伊憎しの念が集結していきました。



井伊直弼




今年?は横浜開港150年になります。
これも井伊直弼の業績です。記念にお土産を買ってきました。が お腹空いたので自分で食べちゃいました。


龍馬はこの頃、水戸の尊攘派志士、住谷寅之助と土佐で会ってます。