山本琢磨事件

mah-kun2010-02-28


山本琢磨:以下ウィキペディアより

天保6年(1835年)、土佐国土佐郡潮江村(現在の高知市)に、土佐藩郷士である山本代七の長男として生まれる。
幼名数馬。ちなみに代七の弟、八平は同じ土佐郷士の坂本家に婿養子として入り坂本直足と改名、次男に坂本龍馬をもうけており、龍馬とは血縁及び実質上の従兄弟同士である。また琢磨の母は武市瑞山(半平太)の妻である富子の叔母であった。


武術に優れ、江戸に出て三大道場の一つといわれた鏡心明智流の桃井道場でその腕を一層磨き、師範代を務めるまでになる。
ところがある晩、酒を飲んでの帰り道に拾った金時計を、酔った勢いで一緒にいた友人と共謀し時計屋に売ってしまい、直ちにそれが不法なものであることが発覚して窮地に追い込まれる。
訴追を逃れるために龍馬や半平太の助けを得て江戸を脱出。東北各地を流れ回った末、新潟にたどり着いたところで出会った前島密箱館(現・函館市)に行くことを勧められ、渡道し函館に落ち着く。
そこでは持ち前の剣術の腕が功をなし、それがきっかけとなって道場を開くと町の名士たちとも親交を持つようになる。
そんな中で知り合った箱館神明宮(現・山上大神宮)宮司の沢辺悌之助に請われて娘の婿養子となり、以後、沢辺姓を名乗る。函館時代の琢磨について、新島七五三太(新島襄)が米国へ密航するときの手助けをしたというエピソードが伝わっている。


当時、既に開港していた函館にはロシア帝国の領事館があり、附属聖堂の管轄司祭として来日していたロシア正教会のニコライ神父(イワン・ドミートリエヴィチ・カサートキン、後の亜使徒聖ニコライ大主教)は、日本宣教の機会を窺いつつ日本の古典文学や歴史を研究していた。
領事館員の中に子弟に日本の武術を学ばせたいという者がいて、その指南役となり領事館に出入りするようになった琢磨もニコライを知ることとなったが、攘夷論者だった琢磨はニコライの日本研究に対して日本侵略に向けた情報収集との疑念を抱き、ニコライをロシアから遣わされた密偵だと思うようになった。
そして殺害をも辞さぬ覚悟でもって大刀を腰に帯びニコライを訪問、来日や日本研究の意図を詰問した。
対するニコライは琢磨の問いに理路整然と答えるとともに、琢磨に対してハリストス正教の教えを知っているかと質問した。
知らぬと答えた琢磨に「ハリストス正教が如何なるものかを知ってから正邪を判断するのでも遅くはなかろう」と諭した。
確かにそれも一理あると考えた琢磨は、以後ニコライの下へ日参して教えを学んでいくうちに心服し、後に友人の医師酒井篤礼らをも誘って教理を学んだ。そして、ついにはまだキリスト教禁制下の明治元年(1868年)4月2日、酒井や浦野太蔵とともに秘密裡にニコライより聖洗機密(洗礼)を受け、日本ハリストス正教会の初穂(最初の信者)となった。聖名(洗礼名)は、初代教会時代にキリスト教を迫害中、劇的な回心を経験して伝道者となり、キリスト教世界宗教化への道を開いた後に致命した聖使徒パウェルパウロ)を与えられた。


受洗後も琢磨はしばらくの間、神明社宮司の座に留まっていた。祭祀の時には祝詞を漢語訳聖書の聖句に置き換えてカムフラージュをしたりもしていたが、やがてハリストス正教に改宗したことを公言し神明社を去る。
禁教下において神道の祭司職が邪教へ改宗したということもあって、琢磨一家に対する迫害は非常に厳しく生活は困窮を極めた。さらには精神的に参ってしまった妻が自宅に放火をするという事件も起きた。
その後、琢磨は妻子を残して函館を一時脱出し、布教しながら東北地方を南下するが、途中で捕縛・投獄され、後に釈放されて函館に戻った。以後の伝道中、仙台にて再び捕縛されるが、明治政府によって禁教が解かれると自由の身となり、以前にも増して伝道に力を入れた。やがて教勢が伸び、邦人神品(聖職者)の必要性が高まってくる。ニコライは明治8年(1875年)7月に東京で第一回の公会議を招集し、その中で司祭の選立が討議された。出席議員による選挙で琢磨と酒井、他2名が選ばれたが、酒井ら3名は推薦を固辞した。話し合いの結果、琢磨を司祭候補に、酒井を輔祭候補とすることに決定した。
そして、同年の末に函館の聖堂にて、この日のために来日した東シベリアのパウェル主教の按手によって、琢磨は日本人初の司祭に叙聖された。(酒井篤礼も輔祭に叙聖された。)わざわざカムチャツカからパウェル主教を招請した理由は、当時ニコライはまだ掌院(archimandrite)、つまり主教に叙聖される前で、神品機密執行の権能がなかったためである。


はれて司祭となった琢磨は、任地や各地の教会で聖体礼儀を司祷し、また洗礼機密を授けて、多くのハリスチャニンを育てた。後に長司祭(ロシア正教会の正式な位階である長司祭(archpriest)とは異なり、主教区内において主教の権限で授与される称号。今日では「管長」という訳語があてられている。)に昇叙。東京復活大聖堂(通称ニコライ堂)建設に当たっては師のニコライと一時対立したこともあったが、一貫して神に奉献する道を歩み、福音宣教に生涯を捧げた。


明治45年(1912年)にニコライ大主教が永眠すると、琢磨は師の後を追うように翌・大正2年(1913年)6月25日、東京にあった四谷洗礼教会にて長男で司祭のアレキセイ沢辺悌太郎神父に看取られながら永眠。
78歳。葬儀はニコライ堂にてセルギイ(チホミーロフ)府主教司祷で盛大に挙行。青山霊園に埋葬される。


山本琢磨



ニコライ聖堂:御茶ノ水

http://d.hatena.ne.jp/mah-kun/20091016


龍馬は日本でのキリスト教ロシア正教の誕生にも関わっているのです。

画像右上:山本琢磨


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